月のきれいな夜です。
伊勢物語、在原業平のお話をオマージュした小説をここ数日読んでいたこともあり、平安時代に月明りを頼りに男女が密会するというのはどのような心持ちなのかと考える。
宇宙に在るものを物差しに考えれば、私も業平もさして変わらないだろうと想像力をフル回転させて意識を飛ばしてみます。
飛ばす、飛ばせど、意識を占有するのは「なぜ私はいま、月を見ているのか」という現実に一瞬にして引き戻されてしまうのはなぜなのでしょう。
自然に触れたからといって、一瞬でリフレッシュできるとかリラックスした時を過ごせるとか、そんなのは誰にでも当てはまるものではないはず。
なぜ、私はいま月を見ているのか。
月を見ているなんて悠長なことができているのか。
他に、本来なら、別にするべきことがあるのではないのか。
私がするべきことはなんなのか。
わかったところで、できるわけではないけれど。
月を見る。ただそれだけのことにさえ集中できないくらい、何かに追い立てられているような気持ちになる悲しさ。
それは誰のせい?
なんのせい?
周囲が、社会が私のような人間に求めているであろうことを、まるでそれが本当であるかのごとく自分で決めつけ、それができていないことに勝手に焦り、心穏やかに月を見る余裕もない。
しかし、でもやっぱりと振り返る。昔昔からの私を振り返る。
どんな時も夜空を仰ぎ見て月を探していた私がいたはず。
であるなら、私は私がしたいことを実はもう叶えていて、叶えているのに間違った認識で勝手につらくなっているだけなのではないのか。
顛倒夢想
逆さまに物事を捉えてしまうことの多さよ。
私が月を見たいと思ったから、私は月を見ているのです。
そうであるなら、みんなもう自分が本当に欲しいものは実は手にしているのではないか。
その人に必要なものがそうそう遠くにあるはずはないと。
なんて自分理屈で心が軽くなったところで、さっきよりも素直に見つめられた月に密かにアイコンタクトを送っておきました。