あれがしたいとか、これがしたいとか、ああなりたいとか、こうなりたいとか。

そう願い、思うことで成し遂げられたことがあった。そうして今の私があるし、今の状況がある。

そういう私個人の描く先のことに接している時間に、少し違和感を感じ始めている。疲れているともいえるのかもしれない。

「そうしたい」という思いが、「それが必要」になってしまっているからなのかと考える。

もっと人が集まるようにしたいとか、もっと本が売れるようになりたいとか、もっともっといい形があるはずだと。

そうなればとても良いし、いまよりもっと私もみんなも幸せを感じるかもしれないけれど、決してそれは「必要」なのではない。

そうならなくても、そうじゃなくても、いい。

現実の世界のことに働きかけるその前に。もっともっとと言ってくるのは、私の意識できていない心のさらに奥の声、それはとても静かに賑やかに迫ってくる。

何がもっとなの?

水色の水彩絵の具にどんどん水を含ませて、ほぼ水みたいにびしゃびしゃになるまで自分を薄めて、私なんだか画用紙なんだか、絵の具なんだか空気なんだか分からないくらいの世界で本を並べられたら、少しは落ち着くかな。そこに必要はないね。

いるけどいない。いないけどいる。

そう考えると、「必」と「要」はとてもこれまでの時代を表す漢字な気がするね。心を一刀両断するような必と、女が重そうな要。

たぶん、必要はなくなる。