なんでこんなに窮屈なのだろうか。

せっかく生まれたのに、大人にまでなったのに。

だいぶ長い間そう思っていて、もちろん今も発作的に思う。

世界で私一人だけならいいのに。しかも私は痴呆で、すっからかんに幸せ。

そんな言葉がふと出てきた割と充実した休日。

充実はまやかしだったのでしょうか。

葉祥明さんという好きな画家がだいぶ昔に書いた詩集の中に、「心に僧院を持つ」という言葉があります。せわしない日々の中で、意識的に自分の心の中につくった僧院に出かけ、静かな時をもつ。

人と交わるのは、それがどんな人であろうとやはり自分の中の何かが乱れるものですね。他者との交流は与えられると同時に奪われもするので、とにかく翻弄されます。まぁそれをリアルタイムで意識なんてしませんが。きっとこれから私自身がどんなに成長しようとも、どんなに神がかった人と出会おうとも、それは変わらない気がします。

だからこそ、心の僧院をより確かなものにしておくのは有益なのでしょう。わざわざ出かける必要もなく、意識の仕方ひとつでどこにいても訪れられる私だけの場所。そこで人は乱れた何かを、まだ自分と融合することのできない何かを調整するのでしょうね。

なんだかとても健気な生き物にも思えてきました。

そういえばある本に、「哲学とは、どこにいてもまるで家にいるかのように思えるためのもの」というようなことが書いてあり、とても納得した覚えがあります。

確かに自分にとっての真理を見つけ、しかも実践までできていたら何て心安らかなことでしょう。どんな最果ての地にいたって、心理的には我が家にいるかのようにリラックスできそうです。

昔流行ったように、「自分探しの旅に出かけよう」などど世界を放浪したいとは思わなくなりましたが、何かを探すのではなく、何かひとつ確かなものをもってなら知らないところにふらふら旅立ってみたいとは思います。