結局のところ、どうすればもっと人に優しくなれ、それによって自分も楽になれるのかと考えた時、やはり相手の中に自分を見つけるというような、「私はあなた」的な感覚がとても大切なのだと実感します。
個性や自分らしさを尊重し追求していくのも、もちろんある時期は必要なことなのでしょう。しかし今の私は、それよりももっと「共通するもの」「普遍的なもの」を他人との間で感じたいと思っているのです。
最近、ある二人のことをよく考えます。一人はこの風の図書室に本を寄贈してくれた男性の方です。失礼な言い方になるかもしれませんが、「モヤモヤしている人」という銅像をつくったら「考える人」の隣に置いても違和感ないくらい、自分の抱えている問題、課題に対してモヤっている姿を見せてくれました。
その方がこれからどのような過程で、また出会いを通してそのモヤモヤの答えを出していくのか。気になるというよりは、祈りとも似た思いで日常の中で振り返っているうちに、その方がいつか見つける答えこそ、私にとっても何かの答えなのだと感じられるようになったのです。
もう一人は私と同年代の女性です。その人は酸素を背負わずに深海に潜るフリーダイビングをしています。ほぼ海にいる人らしく運よく陸にいるときに出会えたのですが、一瞬のうちにまた海に戻ってしまいました(書き方が雑)。
なぜこの人のことを考えるかというと、その理由は私の名前にあるような気がします。私の名前は「千尋」といって、海の深さを測る「尋」という単位に「千」をつけて、「深い海」というような意味があるらしいのです。それを知ってから、空の広さや山の高さより、海の深さが問いかけるものに興味をもっていました。
といっても残念ながら長らく深海に縁はなかったのです。そんな時に彼女と出会い、深く深く体ひとつで潜っていく時に感じる精神的な話を聞かせてもらったことで、まるで自分も同じように潜っていっているかのような、安らかな気持ちになれたのです。
私の体でなくても、この人が海の底で見つけてくるものはきっと私にも注がれるだろう。そう確信できる何かを感じました。
こんなふうに、最近の私は他人様のおかげで勝手にいろいろと恩恵を受ける術を獲得できているのかもしれません。より多くの人の中に私を見つけ、時には半ば強引にでも滑り込ませられたらこの人生は無限に広がるのでしょう。
反対に誰かが私の中に自分を見つけてくれたら。それもまたとても嬉しいことのような気がします。