最近、大切な人との死別を経験したうえで風の図書室に本を寄贈してくださる方が続きました。もともと風の図書室は、そのような方の想いを保存したいと願って始めた側面が強いのでとてもありがたいし、嬉しいことです。
しかし実際にそのような本が集まると、改めて自分自身がもっとしっかりと「死」や「喪失」について知らなければいけないと考えるようになりました。ホームページをつくって、「本の寄贈をお願いします」なんてPRしてみたけれど、とてもそんなことをしていい度量はまだなかったと感じたのです。
人の想い、特に喪失がもつ大きさを前に立ちすくんでしまったのでしょうか。なんて人の心について勉強不足の段階で風の図書室を始めてしまったのだ・・・と少し落ち込みもしたのです。
これまで私は自分の喪失や悲しみにばかり目がいっていて、だからこそこのような図書室をつくろうとも思えたのですが、やはり今後を見据えた時にこのままではいけない何かを感じました。
そこでグリーフケアやグリーフワークについて勉強したいと思うようになり、ここ数日とりあえずYoutubeで関連動画を見ています。悩みの割には入りが軽い!
そもそもグリーフケアなどの言葉って、どこまで一般に浸透しているものなのでしょうか。何となく知っているレベルの私でも、改めて勉強するとまったく知らなかったことばかりなので、やはり認知度はかなり低いのではないかと思います。
これは一例ですが、
「グリーフケア」
喪失を経験した(している)存在を大切にすること
「グリーフワーク」
なくしたもの、ことを主体的に大切にする営み
「グリーフサポート」
喪失や死別にともなって生まれる課題や困難に対する支え
風の図書室の目的は「想いの保存」です。保存という永遠化が、グリーフケアとしてその人の存在を大切にすることにつながってほしいと思っています。また本を選びメッセージを書くという行為はグリーフワーク。そして、風の図書室そのものの存在がグリーフサポートになってほしいと願っています。
自分で言うのもですが、言葉にするととてもしっかりと考えられた図書室のように見えるのです。しかし現実はとても揺れています。一人一人、一冊一冊をないがしろにしてはいけないという思いがあるからこそ、この図書室活動をどう進めていいかわからない。
そんな時にグリーフについての一つの動画を見ていて、「グリーフケアといっても、悲しみや喪失、またそれが癒されていく過程は本当に一人一人違う。だからこういう時はこうすればいいみたいな方法論はない。だからこそ、選択肢がたくさんあることが必要だ」という言葉が響いたのです。
昔からの私の悪い癖なのですが、「本当のこと、真実を求めすぎている」状態に陥っているため、どうしていいかわからなくなってしまっているのだと思いました。たった一つの本当の答え、場所、行為に縛られている。要するにハードルを高く設定し過ぎているのでしょう。
苦しみを抱えるすべての人が関われる場所になって欲しい。というとても傲慢な思いが、風の図書室の迷走を引き起こしているのだとわかりました。
実際はどうしたってみんなそれぞれ驚くほど違う人間です。共通する感情はあっても、わかり合えることはわずかだし、究極のところやっぱり人は一人だと思う。
だからこそ風の図書室は、より多くの人にとって「一つの選択肢」として存在することが大切なのだと思えるように変化しました。そして一つの選択肢としてなら、今の不甲斐ない私がこんなことをしていてもいいかな。と現状を肯定していけるのです。
というかそもそも、当初は「誰か一人でも寄贈してくれたら嬉しい!」くらいの可愛らしい思いだったはず・・・。たった2か月でこの変化!傲慢さよ!!
本当に不甲斐ない風の図書室ですが、いつか誰かが選べる選択肢として、焦らず腐らず人知れず山の中に立つ木のようにすくっと立っていようと思います。