久しぶりに東京に帰りました。3泊4日の滞在中は、30年以上住んだ地元に落ち着く思いを感じる反面、「早くあの場所に戻りたい」と移住してたった2か月のこの南房総という土地を懐かしむ自分に少し振り回されていたような気もします。
ただ、風の図書室としてはとても深い動き方ができたのではないでしょうか。思わぬ人から本を寄贈してもらったり、また思わぬ人と「死」について語ったりする機会がありました。そして、思わぬ人が風の図書室の意義を理解してくれ、思わぬ人が静かに悲しみを打ち明けてくれたりもしたのです。そして何より、多くの人が「本と共にあった時間」を持っていることもわかりました。
その一つ一つを文章にして残しておきたいのですが、それはまたおいおい。もう少し、自分の中で熟成させてからでないと出すのがもったいないようなテーマばかりなのです。
ということで、こちらに帰ってきてからの私は何から考えたらいいのかわからず、思考が手つかず状態。考えるべきことが大きすぎるうえに、きっとすぐには答えが出そうもないことばかりで、ぼーっとしてしまっているのです。
そんな今日、『海からに贈りもの』というもう何度読んだか分からないこの本をぱらぱらとめくっていたら、ある一文が目に留まりました。
「そう、わたしたちが欲しかったのは、これ、だった。それがわかったのだ。昼間の仕事や、細々としたこと、親密な感情や、心を開いて話した後でさえ感じる、ある種の窮屈な感覚……。その感覚の後には、新鮮な潮流のように胸に流れ込んでくる満点の星の夜の、そんな限りない大きさと全体性が欲しくなるものだ。」
日常ではあまり話さないような、でも私にとってはとても大切な話を一気にいろいろな人と話しすぎたのでしょうか。「心を開いて話した後でさえ感じる、ある種の窮屈な感覚」という思いを持っている自分に気がついたのです。
心を開いたような交流ができたからといって、それがすべて「快」になるわけではない。ほとんどが良いことだらけだったとしても、窮屈を感じるのが人間なのだとしたら、その後の対処の仕方をもっとしっかりと知るべきだと感じました。それを知らずに、無意識にでも苦しさや辛さが積み重なってしまっている人がかなりいるのではないでしょうか。
そして、そんな感覚を流すのに必要なのが満点の星の夜のような存在。限りない大きさと全体性。きっと、私が今住むこの田舎町にはそんな大きさがあり、そこに感覚的ですが精神を健全に保つのに必要な全体性も見い出せているのだと思います。だから早く帰りたくなったのでしょう。
東京だからそれができないというわけでは決してないのでしょうが、あの都市では少し難しいのかもしれません。
そのような意味でも、改めてこの地が風の図書室のコンセプトである「人々の想いを保存する場所」として合っているのだとも感じました。なぜなら「想い」は保存すると同時に、流れさせ変化させ出会い、時が来たら昇華するものだと考えるようになったから。
限りない大きさと全体性があるこの場所だからこそ、集まる「想い」があるのだと思い始めています。