もう戻れない幸せな時間を振り返り沈んでいた頃、それでも過去を振り返ってしまうことをやめられなかった日々。
心に一つの完璧なスノードームをつくることで、耐えていた期間がありました。
そのスノードームの中には、「幸せなあの頃」が綺麗な形のままで保存されています。寂しくなった時、悲しくなった時、悔しくなった時、一人で心の中にあるそのスノードームを揺らします。
そうイメージして、戻りたいと願う過去を存分に思うのです。きらきらと作り物の雪が舞う中で過ぎるあの頃のあの時間。

スノードームの内側とそれを見ている外側の私の間にはしっかりとガラスが挟まれているので、内側の「幸せなあの頃」が「今は違う」という暴力性をもって現在の私に降りかかってくることは決してありません。気を抜かなければ。
ただ綺麗なもの、幸せなものとして見つめていられるのです。この方法によって、だいぶ悲しみをコントロールできるようになったと思います。
悲しみをコントロールするなんて、それ自体悲しいことのようにも感じますが、生活をしていくためには必要なこと。またそうすることで少しずつ癒えていく傷もあるのでしょう。
今はそのスノードームを揺らすことはなくなりましたし、もうどこにしまったのかもわからないくらいになってしまいました。ただそうなっても、あのスノードームに封じ込めた時間や想いは、今の私の時間軸とは違う世界で在り続けているのではないか。そう思うと、何かがとても救われるのです。

と、ここまでいったいなんのことやらな文章を書いてしまいました。伝わる人には伝わるだろうという、身勝手な書き方ですね。
最近、『御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年』という本を読んでいます。そこには、内容の性質上「保存」という言葉が度々出てくるのです。
風の図書室は「想いの保存」を目的としていますので、保存とはどういうことなのか、何をもたらすものなのかということに、また違う切り口で考えるきっかけになってくれました。

そんなことに思いを巡らせていたら、スノードームの話に行き当たったのです。人は目に見えるものでも見えないものでも、大切なものを流れてしまう現実の時間とは切り離し、ひとまず保存できる場所が必要なのだと思います。
切り離すことで改めて大切にできる。もしくは安全な場所に置けた安心感で、自分は前に進める。
「保存」を辞書で引くと「そのままの状態を保っておく」などと出てきますが、個人的には「存在していたことを保つ」と捉えられるのかなと思い始めています。
存在していたんだよ、在ったんだよ、と流れる時間の中で静かにささやき続ける図書室なのかもしれません。