小学5年生のとき、漫画「はだしのゲン」がクラスで流行った。休み時間になるとそこかしこで誰かがゲンを読む。絶対にその絵を目に入れたくない私は、とてつもない緊張とストレスが続く毎日に本当に参ってしまった。わざと見せてきた悪ガキはいまだに呪っている。

中学に入って配られた歴史の教科書。リアルな戦争の写真が載ったページはすべてホチキスで留めた。何かの拍子にあの白黒の悲惨な絵が飛び込んできてしまったらと思うと、縄文時代、卑弥呼あたりの章からすでに落ち着かなかったのだ。

高校生。修学旅行先は困ったことに沖縄。数か月前から綿密な計画を立てた。最大の難関はガマへの入壕体験と平和記念資料館だ。いかに私がいないことを悟られずにとんずらするか。忍者のような身のこなしで抜け出し、ひとり木陰で時間をつぶしていた。

大人になり、世の中は常にどこかしらの国の戦争を報道していて、過去の戦争についてもあれこれやっていたけれど、自分から働きかけない限り戦争についての知識を強制されない日々にほっとした。日本に生きる私自身の生活も、いまのところ戦争は遠い。

なのに、心の片隅ではずっと戦争を考えていたと思う。本は開けない、映像も見られないから、ただ考えていた。なんでなんだろうと。なんでこんなに怖いのだろうと。

ラスボスかのような図書室

そんな思考のエネルギーがついに現実世界に表れてしまったのだろう。あろうことか、風の図書室から徒歩5分の場所に、戦争関連の書籍専門の私設図書館「永遠の図書室」ができた。正確には永遠の図書室が先にあって、そこに昨年、風の図書室が後追いで開館したわけだが。

戦争に特化したこの図書室には絶対に入れない。

とはなぜだか思わなかったのだ。いつか必ず出会うラスボスかのような図書室を前に、「いよいよ回収するときがきたのだな」と。長年逃げ続けていたものに向き合うタイミングが、向こうから来たと納得がいった。といっても、ここですんなり戦争について勉強するようになったとかではまったくない。

戦争資料がずらっと並ぶ館内には入れたが、そこから本を取り出して開くことはまだできないのだ。それどころか、書棚に視点を合わすことができない。あそこではすべてをぼやっと見ているだけ。大した眼筋と演技力だ。

それなのに昨年末、私は「風の図書室と永遠の図書室の合同企画で、沖縄戦についてのイベントをやろうよ」と永遠の図書室の司書さんに迫っていた。おかしい。これは絶対に私の発言じゃない。

ただちょうどその時期、沖縄出身で沖縄戦での遺骨の収集に力を注ぐ女性と知り合っていた。この女性の話を中心に、永遠の図書室の司書さんに沖縄戦についての本を紹介してもらえれば、私がこんなんでも成り立つなと。

そんなわけで2023年2月5日、「風の図書室&永遠の図書室のWおねえさんが教えてあげましょう。-昭和のあの日、沖縄で-」という、怖さを精一杯隠したふざけたタイトルのイベントは開催された。何も教えられない、戦争から逃げてばかりのおねえさんなのに、頭にまず「風の図書室」とつけている図々しさに我ながらあっぱれだ。

イベントの内容が果たしてどうだったのか。参加者に何か残せるものはあったのか。ぼやっと司会だけやっていた私にはわからない。

ただ一つ、高校生の私が修学旅行先の沖縄でやれなかったことを、20年以上経って少しは回収できたのかなとは思う。

自身の体験談を話してくれた沖縄出身の女性が言っていた。

「こういう図書室が町にあり、知識を得ることができるのはとてもありがたいこと」

ありがたいね。ありがたいよ。それで、私たちの世界はこれからどうなるの?戦争がはじまるの?もうはじまっているの?避けては通れないものが回りはじめる。

だから嫌なんだ。戦争について考えることは。知ることは。日常を置き去りにして心がすべて持っていかれてしまう。

永遠の図書室 https://www.eternallibrary.net/